怒りじじい鳴きじじい

ソケリッサ!の練習を見た方の質問や取材を受けたりする中で、「おじさん達に怒らないのですか。」と言われる事がある。確かに連日の欠席や問題があれば注意はすることもあるが、仲間に危害にならない限り怒って首にすることも無く、世間一般的な感覚で見れば優しいのかもしれない。以前は遅刻の場合は必ず連絡をしてくださいなど規律を決め、文書などに記し、厳しくしていた頃もあった。しかし電話代すら持ち合わせず、路上生活での身体的負担も想像を超える部分も多い。しだいに休むメンバーは増え、練習での踊りも形式的なものに留まり、自由も何も見えなくなった。特に社会的生活からはみ出た人たちの表現を見たいと始めたのに関わらず、そこでもふるいにかけることは一般の生活をしている人を集めていることと変わりは無くなっていく。何をしているのだろう・・と思った。

怒ることは一番わかりやすい統制方法であると思う。怒られないために従い、秩序は保つ事も可能である。しかしそこには縮んだ、保守的な人間を造り出してしまう流れが簡単に出来ていくように思う。人間の自由を飛び越えた自由を見たいし、どこにも無い踊りの生まれない芸術なんて、しびれる躍動も何もない。練習に来なければ出番が減る、おのずとそれだけになった。今では本番へ向けての練習になかなか参加しないメンバーは一人くらいである。うわさではギャンブルが止められないだとか、怠け癖があるなどとよく聞く。しかしもしそれでも少しは練習に出て人前で踊りたいという意思があれば、一緒にやりたい。ギャンブルなどももしやりたいならやれば良いと思う。表現は日常の延長から切り離せない、ギャンブル好きならギャンブル好きな踊りを見せれば良い。もし本人がもっと違う踊りを踊りたいのならおのずと止めるかもしれないし、結局又やってしまうのかもしれない。弱いならその弱さを見せるだけである。強制的に総てを模範的な人にに変えることにより、その個人の踊りはあっという間に保守的で平均的なものとなる。人間は合理的で、いい加減で、弱いものである(になってしまった)。もし自身が総てをきちんと認められた時には本当の強さに出会えるのかもしれない。

 

商品やサービスを相手へ提供しお金を得るという世の仕事形式は、部下がミスをすれば当然怒るという必然性もうなずける。本来怒ることとは、生命が身を守るために使う手段であるが、今日の生命的危機に陥らない幸せな日常生活において、その感情はもはや自我だったりプライドや体裁を守る手段、ストレスの解消としてあまりにも無意識に乱用されることが多い。本来、何に対して怒るべきかを見失って行かないようにしなければならない。

我々がもう少し怒る事に関して客観的なに対処をすれば、怒りが相乗してゆく戦争の繰り返しは改められるはずのように思える。

 

ちなみに8月の十和田で「怒りじじい鳴きじじい」(泣きではない)という踊りを、メンバーの佐藤さんが踊ります。そうとう個性の強い動きです。

 

 

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